2016年6月13日月曜日

【アート】「仮設」を探る。

ここ最近の制作は、まさしく「仮設」を探るための検証方法であったようだ。

それは僕の唱える支持体論の根幹を成す部分の、あくまで意思表明の具現化とも言えるだろう。
それらは僕が提示したい主内容そのものではなかったようだ。
 
例えば≪ Spread n-1 (a,a’) ≫(題名を当初より一部改変)は、仮でもあり本質でもありうるこの世界に、あえて仮に表すことを具現化した作品といえる。
その素材にはカメラとプロジェクターというインプット、アウトプットが視覚的であることにこだわり、視覚芸術としての美術の内であることに基づいている。


 
あとは方法論として提示した『 X=r-r0 』変位を用いた絵画としての≪ n=r0 の変位体 r ≫。
または、まだ表明していない制作計画『n次元における仮設法』。これは写真、デジタル写真、クラウドから落とした映像を順に提示して、それぞれを≪1次仮設法≫、≪2次仮設法≫、≪3次仮設法≫とし、低次元化している現象に言及したものである。
これらは意思表明に留まらず、「仮設」を具体的に探っていく検証であったようだ。
 
つまり以上はこうして言葉で表明できているため、正直言って作品を作る行為は、自分が次の段階へ制作を行うための感覚の確認作業以外に、他者にとっては必要ないのかもしれない。一連の制作展を開催した際の作家の制作の流れを知る手がかり以外には。
 
この次の段階への糸口が何かしらつかめてきたかもしれない。
それは「仮設であり本質でもあるこの世界へ、明らかに仮設することで、この世界の拡大がなされる」ということである。
 
少し質的な意味は変わってくるが、 AR (拡張現実)や楽天技術研究所が提唱するサードリアリティに似ているのかもしれない。
だがしかしそこに僕の求める芸術的な行為は含まれないのであるから、当たり前であるがそれがしたいのではない。
 
例えばn+1次元を仮定した状態での作品 A は、それを作家が作家のいるn次元へ具現化した時点で A ではなく A’ という仮の姿での発露となる。
 
そしてその A’ という作品がn次元へ現れた際、その何らかのn次元世界への作用は作家の理解を超えたところで、その実在状況と仮設状況とが侵食しあいながら全く別のありようとして生き続けるのである。
 
これはn次元に生きる人間の作家、つまり僕でなければ起こしえぬものであろう。
 
70年代、制作におけるプランニングは否定され、その実際的な在りようが追及された。
しかしその在りようということには、正直限界が来ているのではないだろうか。
ありとあらゆる表現手法や素材などの越境が成され、アートは社会との結実の中に活路を模索しているようにも見える。
 
しかし僕はそうではなく、この頭が痛くなるようなこねくり回して考えるような論議と、そのパラレルとして存在する作品制作という方法を持って、実在論的に芸術をしていきたいと願うのだ。

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