2017年5月12日金曜日

【経営】地方都市におけるアーカイヴ制作の戦略と有用性

2017年4月の美術批評誌『REAR(リア)』の特集は「アーカイヴは可能か?」でした。

掲載稿の中でも太下義之(三菱UFJリサーチ&コンサルティング、芸術・文化政策センター主席研究員/センター長)による「文化政策としてのアーカイヴ -周回遅れからの逆転のために-」の前半は、2001年11月成立の「文化芸術振興基本法」のアーカイヴに関する記述の紹介と考察で構成されいています。

その中でも、私が注目したのが2015年5月に閣議決定されている「第4次基本方針」にある記述でした。

それによると「我が国の多様な文化芸術、映画・映像、文化財等の情報について、デジタル技術、インターネット等を活用してネットワーク化、アーカイヴ化するなど、保存、展示、国内外への発信等を促進する。その際、学校教育における活用の促進の観点から、子供たちが理解しやすいものとすることにも留意する
(p31「10.その他の基盤の整備等」(1)項目より)

『文化芸術の振興に関する基本的な方針(第4次基本方針) の閣議決定について』↓
http://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/pdf/2015052201.pdf

以上の記述からも、①インターネットを活用したアーカイヴ化 ②市民にも理解しやすくアクセスのしやすい情報の整備と公開 という観点の重要性が明らかとなりました。

私の経営する合同会社Bambrook(バンブローク)では、動画制作・ワークショップ企画・デザイン・アートマネジメントを主軸に事業運営を行っております。
(Webサイト⇒https://bambrook.jimdo.com/

現在は動画制作を主な事業としつつ、将来的なビジョンとしては本店のある静岡県を中心とした、「動画メディアを通したアーカイヴ制作による、地方都市の芸術・文化の振興」に置きたいと考えています。

それによって以下の効果を発揮すると考えております。

①学校教育目的による、教職員への授業づくりへの参考資料としての活用や、動画自体を用いた教材化への応用。または生涯教育目的による、市民の生活により密接なワークショップ等諸企画への参加の促進。

②上記を通した活動による地産地消型(オープンでありクローズ)の情報共有をベースとした新たな地域連携の創造、および地方都市戦略における新たな発展。(例えば静岡県の人口流出問題に対し、地域の魅力ある芸術・文化の現状を動画メディアによって入手しやすい環境を整えることによって、その地域の教育的価値やシビックプライドの向上などを通して、定住者の上昇が期待される)

③新たなアーティストなど芸術・文化の担い手の育成と発見の現場を、より市民が身近な存在として受け入れる契機の創出。

④地方都市の芸術・文化に関するアーカイヴ資料により、後代の研究資料が拡充すると共に、動画によってより直感的導入的な調査がしやすくなる。それにより首都中心的な文脈以外の文脈化が進み、より多角的な批評が行われ日本全体の芸術・文化の成熟化を促す。


以上のことが現在考えられます。
加えてこの事業は、2020年の東京オリンピックまでに全国で行われる文化プログラムまでに大変有効なものであります。

(文化プログラムに関する投稿は以下↓)
【経営とアート】2020年オリンピック文化プログラムに必要なこと
http://tanisanchi.blogspot.jp/2016/12/httpwww.html

つまり今現在も執り行われている各種企画を、その立案、準備、試行、実施、考察を兼ねて動画メディアに残すべきであるということです。
しかもそれらの実施は明らかに2020年以降よりも成されるはずなので、地方都市におけるデータの充実が行われやすいのです。

このアーカイヴをもって研究資料のみならず、実質的な活用を行うためには、アクセスのしやすい環境を整えた動画メディアサイトの運営が必須と考えています。

以下のシズオカアートネイバーは、その試作段階にあります↓
https://shizuoka-art-neighbor.jimdo.com/

もちろんネット上での情報共有だけではなく、アクセスのしやすい場所に情報を入手できる中心施設の必要性はあると思います。

しかしそれはあくまでもアーカイヴ目的のみの施設ではなく、展覧会やイベント等へのハブであったり、そもそも現実空間である特質を活かした活用目的を主軸とする、動画アーカイブとはまた質の違う目的性の下で運営されるべきです。

ここで私が提案しているのは、あくまで動画メディアの制作とオープンでありクローズである共有サイトの運営を行うことで、アーカイヴ制作と地方都市の芸術・文化戦略の両方を担うことができるであろうということなのです。




















2017年4月19日水曜日

【アート】美術手帳2017.5「坂本龍一」と「谷正輝展 -your ray-」

まず私事から入りますが、2017年3月をもちまして無事大学院を修了し、今更ながら社会人1年目となりました。
同時に5月より、これまでの個人事業を法人化して「合同会社 Bambrook」として新たな歩みを踏み出すことになりました。
今後の成長も温かく見守って頂きつつ、いや、見守るだけでは…!という方がいらっしゃいましたら、是非お声がけ頂ければ幸いです。

2017年5月号の美術手帳の特集は「坂本龍一」でした。
最近私自身が音楽というか、音そのものにも興味を持ち始めていたことと、先日開催した個展(個展についてはまとまり次第改めて掲載致します)の評論に、以下のような音楽との関係性を示すものを頂いたこともあって購読しました。

※「谷正輝展 -your ray-」↓











以下「谷正輝展 -your ray-」(2017)に対する批評文
(著:曽布川祐、オルタナティブスぺース スノドカフェ七間町店 店長)

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電車の音とは、数あるサウンドスケープの中でも西洋的な文脈上にある大衆音楽に近いものだろう。
単調に規定されたリズムとメロディー。僅かばかりの即興的要素である乗客も、みな社会的に規定され、紋切り型の音声を出すばかりである。
特に山手線という「楽曲」は、電車という「楽器」が奏でるものの中でもかなり規定されたものだろう。
それはまるで、「金太郎飴」と揶揄されたラモーンズのようですらある(環状線であるそれは、何度も繰り返しリプレイされる。アナウンスによる「歌詞」もいつも一緒だ)。
「山手線」という楽曲は、BGMとして決して耳触りなものではなく、むしろ心の平安を保証するものであるに違いない。言うなれば、これは音楽的な作品である。 製作者の意図は、三次元空間である「我々の世界」の代表的な風景として、世界で最も利用客の多い山手線の映像を壁に写す(移す)ことによって、それを二次元に押し込み、それを外から見る鑑賞の主体者の世界→三次元を、四次元として引き起こすことにあったのだろう(対面の壁には、ギャラリーを鑑賞する己の姿が同時的に映し出される。用心深く二重に仕掛けられているのだが、その効果のほどは、個々の鑑賞者の感想を集計した統計の結果を待つばかりである)。
ソシュールの「一般言語学講義」では、言語における共時的状態は壁に映写された言語の通時的運動である、と表現されている。この比喩を我々の空間に適用し逆側から読むと、壁に映写された空間は時間軸から切り離される、ということになる(まるで現象学だ)。要するに、一つ下位の次元に引き落とされる、ということである。
我々の視覚もまた、心という壁に世界を映すゆえに同じことが起きると言える。
我々にとって物事を立体的に捉えることが困難なのはそのためだ(我々が物事を立体として解釈するためには、複数の面を幾何学的に組み合わせる必要がある。我々の知覚の限界がこの「面」なのだ)。
作品に戻ろう。あらかじめ面となった山手線の風景は、我々に空間的感覚を喚起させず、聴覚が優位性を持つものとなる。
それゆえ、「この作品は音楽的な作品である」と言い得るのだ。

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以上、批評に対する応答も含め個展を主題とした投稿は、またの機会にしようと思います。

さて前置きが長くなりましたが、本題の坂本龍一さんのロングインタビューには李禹煥やもの派への言及と共に、アルバム「async」の解説がなされていました。

まず「async」ですが、これは「asynchronous」(非同期)を意味するネットワーク用語です。
この辺りは李禹煥や菅木志雄の言論が示唆する、素材として扱われていた物と作品、作者などの主従関係を並置させることで、「もの」そのものの存在を非同期的に立ち現すことと類似するでしょう。

「async」収録の音楽は、「もの」そのものが発する根源的な音への興味を中心に制作されたようです。

そしてアルバム公開前のプロモーションでは、「SN/M比 50%」というメッセージだけしか示されないというものでした。

この「SN/M比 50%」という言葉ですが、電子工学関係者なら一目瞭然なのでしょうが、インタビュー内での発言などからも考えると「S/N比」が本なのでしょう。
信号(signal)と雑音(noise)の比率です。

坂本龍一さんの場合、S=sound、N=noise、M=music(詩的) ということになっています。
発言からもSとNの区別はもうできないということから、SもNと同じ値として抱えられているということです。

これを美術で考えるとどういったことなのだろうか、とも思うのです。
ノイズというものから考えてみると、「妨げになるもの」や「余分なもの」、「予測不能なもの」などという意味合いがあり、つまりは「対象外のもの」ということになります。
つまりS=素材になるもの、N=素材にならないもの、とでも置き換えられるでしょうか。

以上の内容から自身の「谷正輝展 -your ray-」の作品を見ていきたくなりました。

SNの区別がつかないということは、「素材になるものとならないものとの区別がない」という意味であり、それは数十年前からの横断的で多様性に富む昨今の表現を見ればその通りでしょう。

今回の個展でいうと、例えば《how to make colors constructing you and your worlds, and may be these beyond》(2017)という作品には、モアレと呼ばれる画面ノイズを取り入れています。


さらに、展示にはプロジェクター3台を使って様々な角度からの映像投影を交差させることで、インタラクティブな要素を絡めつつあらゆる空間への投影を行っています。

そこで投影される映像は必ずしも平らで四角い面ではなく、柱や天井、床など凹凸のある空間へ映し出しています。



一般的にこれらの凹凸や、そこに映った像のゆがみや流れなどはノイズとして排除されるのですが、私はこうした画面を意識しない映像投影を行うことで、

平面的に映像作品をみる場合、その見る視点が同一上の空間ではなく、スクリーンを介して切り離された向こう側への眼差しとして、ある意味フィクションな世界を引き立たせた構造になっていると考えているのです。

私が作品のスタイルをわざわざプロジェクション・インスタレーションと呼称しているのは、映像自体への関わり方やその在り方についての言及をしているからなのです。

話を戻して坂本龍一さんは、Mとはmusic=詩的要素であると語っています。
音楽をやっている以上、言葉で言い表せないことがあるわけでその要素がMであり、なければ知的操作のみに終わってしまう、という趣旨の説明でした。

言葉や何かで理解するものではなく、「突き刺さるようなもの」、「理解を超えた痛み」などと表現されており、美術作品でいえば李禹煥の「関係項」シリーズに顕著なMを感じるとしています。


このMですが、私にとっては「シビれ」であったり「作品の成立の瞬間」であったりすると感じています。
私の制作の場合は、時間的要素やいわゆるNの要素の割合が大きいため、瞬間的にそのMが訪れるのです。
それも質の違いのあるMが、さざ波のように迫る感覚を私は私の作る空間で感じるのです。

以上、このように自らの制作を通して坂本龍一さんのSN/Mを捉えようとしました。
これは知識不足なため単なる予測ですが、S/N比の単位となるdB(デシベル)とは絶対値を表す単位ではなく、%のような比率を表す単位であることから、「SN/M比 50%」というのがdBのような単位として扱われていることが読み取れます。

一般的に60dBが聞き取りやすい音質や音量ということですが、この値が50%としているため単純に50dBと比較してみるとどういったことが言えるのかを考えてみました。

50dBの世界については以下のサイトを参照してみてください↓
http://www.50db.com/world.html
つまり50dBというのは、ほぼ聞き取りづらいということでしょう。
ただこれはS/N比で考えてNの値が大きいから、聞き取りづらいということになるわけです。

ただし今回そのNはMとして置換されているわけですから、つまりは詩的要素としての「突き刺さるもの」が今回のアルバムにはふんだんに感じられる力作であることを示しているわけです。

それは本人もすでに答えています。
「あまりにも好きすぎて、誰にも聴かせたくない」

ここまで言わしめる作品を作れたというのは、一作家としてとてもうらやましいなと感じるのが本音ですね。

私の個展のSN/M比は果たして何%であったのか。
それはまた次回、個展についての投稿までに言葉にできればと思っています。