2016年6月18日土曜日

【アートと経営】「静岡アートネイバー」をやりたい。

yotubeで「静岡 アート」と検索すると、約21,800件の動画がリストアップされます。

同様に各都道府県とアートで検索してみた結果、地方都市の中では11位の動画数でした。
47都道府県で考えれば、結構いい数字だと思います。

これは静岡でのアートに関する動画の制作者と受容者の潜在性が高いことを意味しています。
ということで本題↓




「シズオカ アート ネイバー」
http://shizuoka-art-neighbor.jimdo.com/


という、地域コミット型の芸術文化情報サイトをやってみたいのです。
簡単な形には上記のように作ってはみたのです。

本来やりたい内容は以下のものなのです。今のところは。



【内容】

  ・誰でも投稿可能な動画のソーシャルメディア。(媒体はyoutube)

   ・ソーシャルメディア + マルチメディア + ミドルメディア 。要はSNS型の動画のまとめサイト。

   ・「地方の芸術的財産の確立」、「地方による情報の循環」、「地方芸術文化の文脈化」、を目的とする。(現代、過去にかかわらず)

   ・  youtube    からの投稿をリンクしてはめ込む。

  ・形態は動画のミドルメディア(まとめサイト)。その中にギャラリーやアーティストのリンク集、またはコラム集などの、関連媒体が入っていくようにする。


   


【必要性】


  ・美術館の今後、現代アートの様相、生き残るためには地元のアーカイブを掘り起こしたり、先の世のために、そのアーカイブを作ること。 そのためには自由投稿型にして、美術史という制度化された中では取り零されそうな活動についても保存されるよう、掲載自体に規制はかけるべきではない。


  ・首都圏での活動は、その絶対的な人口の差から、コアなファンだけでも成立してしまう。しかしそれはコミュニティの狭さを露見する。 地方都市だからこそ、現地での情報を直に汲み上げ、それを地方の中に対してまずは流通するものを目的とすべき。実は相対的にこれ自身も「地方」というコミュニティの狭さを同時に意味する。しかし来るべき静岡の芸術文化の概観の研究がなされる際の必要性として、このアーカイブする動画の機能は必要不可欠にもなるだろう。そうなった際の地方都市として、静岡は他の地方に先駆けて一つの土台としての「地方」がその独自性の中で、都市自らが自覚した情報としてそれらを他者(日本全国、全世界)へと関係させるだけの文脈の強さと、市民自らが自覚する文化力を持つことになるだろう。


  ・2020年、オリンピック文化プログラムに向けて多くの取り組みがなされるだろうが、その後必要となるのが検証作業である。動画による公告はもちろん、オリンピック以降の芸術文化活動を支えるためにも、取り行われた、もしくは執り行われようとしていたプログラムの再検証が予想される。そのための幅広いアーカイブ作成のためにも、投稿型の動画は必要である。






ちなみに上記【必要性】での「美術館の今後、現代アートの様相、生き残るためには…」というのは、下記の考えを元にしています。



 【美術館の今後について】


  日本の美術史を作っているのは、東京都現代美術館や国立近代美術館など中枢となるような美術館に収蔵される作品、作家によるものがほとんどであった。しかしそれは戦時中による戦災を免れたからという理由と、東京が主な国際的なハブとしての機能を有する唯一の場所であったことなどが関係しているだろう。

  昨今のインターネットの発展によって、情報のインプット、アウトプットが場所によらずいつでもどこでも可能となったことから考えると、そのハブの基本的な機能はもはや世界各地どこでも可能となったといえる。地方の美術館の収蔵品は地元の優れた作家が、その死後寄贈されたものが多く保管されており、そういった意味で地方のアーカイブが全国の公立美術館ならば  60   年ほどの美術史として残されていると言える。その理由は経済低迷による資金不足によるものでもあるが、これらの現状から考えると地方美術館が生き残る術は、そういった地方の作品、作家にフォーカスを当てたものにシフトしていく必要があるだろう。

 これら地方へのフォーカスは肯定的に捉えられる。それは日本国内における地方と言う位置づけと同じように世界におけるアジアの位置付けと比例するからである。つまりこれまで西洋文化に対し東洋文化、殊にアジア文化における劣等感は、その西洋文化を基準とした価値観の中で明らかに存在していただろう。しかしそれは、情報化による流動的で共有性の高い社会の発生と、地方に残るアーカイブの存在がアジア圏の文化の新たな価値づけによる隆盛をもたらす可能性がまだまだ残されているということである。日本においても東京の美術館、作品、作家が重要視される日本美術史だけではなく、地方に存在する数々の作品、作家における新たな価値づけの中に可能性があると共に、それは必然的に地方美術 館がとる行動として必要なこととなってくる。資本主義を改めて見直していくことになる今後の世界情勢とリンクするように。美術界が先駆けて、このアジアにおける価値の発言を行う時流にある。





以上の内容は、 2015年4月11日の 『他人の時間展』オープニング記念フォーラム「いま、アジアの美術館活動を考える」での内容や、美術手帖2015年3月号のスペシャルトーク対談、長谷川祐子×片岡真実「オルターモダンからモダニズムズへ」の中でも大方語られています。


 こういったことを考えると、ますます必要性を感じずにはいられないのですね。

静岡県立美術館のWebサイトにある第三者評価委員会の報告でも、広報やメディアの活用といった所にはかなり指摘がされていましたし。

 しかし僕だけではこれを現実化させるまでの力はありません。

ここで語っている言葉や内容にも、自分でもまだまだ考えなければならないことはたくさんあります。

 それでもこういうことがしたい、こういうものが必要なんじゃないだろうか、と恥ずかしげもなく声を上げていくことに、僕は僕らしさを感じるのです。


 こんなに知識や技術もない僕ですが、もしかしたらこうして声を上げていることを誰かが見つけて、実現化へ導いてくれるのではないだろうかと思うのです。


 それはただ願うだけではかないません。受け身では何も変わりません。

だから僕はたとえ恥さらしだったとしても、行動をしていこうと思うのです。

2016年6月13日月曜日

【アート】「仮設」を探る。

ここ最近の制作は、まさしく「仮設」を探るための検証方法であったようだ。

それは僕の唱える支持体論の根幹を成す部分の、あくまで意思表明の具現化とも言えるだろう。
それらは僕が提示したい主内容そのものではなかったようだ。
 
例えば≪ Spread n-1 (a,a’) ≫(題名を当初より一部改変)は、仮でもあり本質でもありうるこの世界に、あえて仮に表すことを具現化した作品といえる。
その素材にはカメラとプロジェクターというインプット、アウトプットが視覚的であることにこだわり、視覚芸術としての美術の内であることに基づいている。


 
あとは方法論として提示した『 X=r-r0 』変位を用いた絵画としての≪ n=r0 の変位体 r ≫。
または、まだ表明していない制作計画『n次元における仮設法』。これは写真、デジタル写真、クラウドから落とした映像を順に提示して、それぞれを≪1次仮設法≫、≪2次仮設法≫、≪3次仮設法≫とし、低次元化している現象に言及したものである。
これらは意思表明に留まらず、「仮設」を具体的に探っていく検証であったようだ。
 
つまり以上はこうして言葉で表明できているため、正直言って作品を作る行為は、自分が次の段階へ制作を行うための感覚の確認作業以外に、他者にとっては必要ないのかもしれない。一連の制作展を開催した際の作家の制作の流れを知る手がかり以外には。
 
この次の段階への糸口が何かしらつかめてきたかもしれない。
それは「仮設であり本質でもあるこの世界へ、明らかに仮設することで、この世界の拡大がなされる」ということである。
 
少し質的な意味は変わってくるが、 AR (拡張現実)や楽天技術研究所が提唱するサードリアリティに似ているのかもしれない。
だがしかしそこに僕の求める芸術的な行為は含まれないのであるから、当たり前であるがそれがしたいのではない。
 
例えばn+1次元を仮定した状態での作品 A は、それを作家が作家のいるn次元へ具現化した時点で A ではなく A’ という仮の姿での発露となる。
 
そしてその A’ という作品がn次元へ現れた際、その何らかのn次元世界への作用は作家の理解を超えたところで、その実在状況と仮設状況とが侵食しあいながら全く別のありようとして生き続けるのである。
 
これはn次元に生きる人間の作家、つまり僕でなければ起こしえぬものであろう。
 
70年代、制作におけるプランニングは否定され、その実際的な在りようが追及された。
しかしその在りようということには、正直限界が来ているのではないだろうか。
ありとあらゆる表現手法や素材などの越境が成され、アートは社会との結実の中に活路を模索しているようにも見える。
 
しかし僕はそうではなく、この頭が痛くなるようなこねくり回して考えるような論議と、そのパラレルとして存在する作品制作という方法を持って、実在論的に芸術をしていきたいと願うのだ。