2017年4月19日水曜日

【アート】美術手帳2017.5「坂本龍一」と「谷正輝展 -your ray-」

まず私事から入りますが、2017年3月をもちまして無事大学院を修了し、今更ながら社会人1年目となりました。
同時に5月より、これまでの個人事業を法人化して「合同会社 Bambrook」として新たな歩みを踏み出すことになりました。
今後の成長も温かく見守って頂きつつ、いや、見守るだけでは…!という方がいらっしゃいましたら、是非お声がけ頂ければ幸いです。

2017年5月号の美術手帳の特集は「坂本龍一」でした。
最近私自身が音楽というか、音そのものにも興味を持ち始めていたことと、先日開催した個展(個展についてはまとまり次第改めて掲載致します)の評論に、以下のような音楽との関係性を示すものを頂いたこともあって購読しました。

※「谷正輝展 -your ray-」↓











以下「谷正輝展 -your ray-」(2017)に対する批評文
(著:曽布川祐、オルタナティブスぺース スノドカフェ七間町店 店長)

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電車の音とは、数あるサウンドスケープの中でも西洋的な文脈上にある大衆音楽に近いものだろう。
単調に規定されたリズムとメロディー。僅かばかりの即興的要素である乗客も、みな社会的に規定され、紋切り型の音声を出すばかりである。
特に山手線という「楽曲」は、電車という「楽器」が奏でるものの中でもかなり規定されたものだろう。
それはまるで、「金太郎飴」と揶揄されたラモーンズのようですらある(環状線であるそれは、何度も繰り返しリプレイされる。アナウンスによる「歌詞」もいつも一緒だ)。
「山手線」という楽曲は、BGMとして決して耳触りなものではなく、むしろ心の平安を保証するものであるに違いない。言うなれば、これは音楽的な作品である。 製作者の意図は、三次元空間である「我々の世界」の代表的な風景として、世界で最も利用客の多い山手線の映像を壁に写す(移す)ことによって、それを二次元に押し込み、それを外から見る鑑賞の主体者の世界→三次元を、四次元として引き起こすことにあったのだろう(対面の壁には、ギャラリーを鑑賞する己の姿が同時的に映し出される。用心深く二重に仕掛けられているのだが、その効果のほどは、個々の鑑賞者の感想を集計した統計の結果を待つばかりである)。
ソシュールの「一般言語学講義」では、言語における共時的状態は壁に映写された言語の通時的運動である、と表現されている。この比喩を我々の空間に適用し逆側から読むと、壁に映写された空間は時間軸から切り離される、ということになる(まるで現象学だ)。要するに、一つ下位の次元に引き落とされる、ということである。
我々の視覚もまた、心という壁に世界を映すゆえに同じことが起きると言える。
我々にとって物事を立体的に捉えることが困難なのはそのためだ(我々が物事を立体として解釈するためには、複数の面を幾何学的に組み合わせる必要がある。我々の知覚の限界がこの「面」なのだ)。
作品に戻ろう。あらかじめ面となった山手線の風景は、我々に空間的感覚を喚起させず、聴覚が優位性を持つものとなる。
それゆえ、「この作品は音楽的な作品である」と言い得るのだ。

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以上、批評に対する応答も含め個展を主題とした投稿は、またの機会にしようと思います。

さて前置きが長くなりましたが、本題の坂本龍一さんのロングインタビューには李禹煥やもの派への言及と共に、アルバム「async」の解説がなされていました。

まず「async」ですが、これは「asynchronous」(非同期)を意味するネットワーク用語です。
この辺りは李禹煥や菅木志雄の言論が示唆する、素材として扱われていた物と作品、作者などの主従関係を並置させることで、「もの」そのものの存在を非同期的に立ち現すことと類似するでしょう。

「async」収録の音楽は、「もの」そのものが発する根源的な音への興味を中心に制作されたようです。

そしてアルバム公開前のプロモーションでは、「SN/M比 50%」というメッセージだけしか示されないというものでした。

この「SN/M比 50%」という言葉ですが、電子工学関係者なら一目瞭然なのでしょうが、インタビュー内での発言などからも考えると「S/N比」が本なのでしょう。
信号(signal)と雑音(noise)の比率です。

坂本龍一さんの場合、S=sound、N=noise、M=music(詩的) ということになっています。
発言からもSとNの区別はもうできないということから、SもNと同じ値として抱えられているということです。

これを美術で考えるとどういったことなのだろうか、とも思うのです。
ノイズというものから考えてみると、「妨げになるもの」や「余分なもの」、「予測不能なもの」などという意味合いがあり、つまりは「対象外のもの」ということになります。
つまりS=素材になるもの、N=素材にならないもの、とでも置き換えられるでしょうか。

以上の内容から自身の「谷正輝展 -your ray-」の作品を見ていきたくなりました。

SNの区別がつかないということは、「素材になるものとならないものとの区別がない」という意味であり、それは数十年前からの横断的で多様性に富む昨今の表現を見ればその通りでしょう。

今回の個展でいうと、例えば《how to make colors constructing you and your worlds, and may be these beyond》(2017)という作品には、モアレと呼ばれる画面ノイズを取り入れています。


さらに、展示にはプロジェクター3台を使って様々な角度からの映像投影を交差させることで、インタラクティブな要素を絡めつつあらゆる空間への投影を行っています。

そこで投影される映像は必ずしも平らで四角い面ではなく、柱や天井、床など凹凸のある空間へ映し出しています。



一般的にこれらの凹凸や、そこに映った像のゆがみや流れなどはノイズとして排除されるのですが、私はこうした画面を意識しない映像投影を行うことで、

平面的に映像作品をみる場合、その見る視点が同一上の空間ではなく、スクリーンを介して切り離された向こう側への眼差しとして、ある意味フィクションな世界を引き立たせた構造になっていると考えているのです。

私が作品のスタイルをわざわざプロジェクション・インスタレーションと呼称しているのは、映像自体への関わり方やその在り方についての言及をしているからなのです。

話を戻して坂本龍一さんは、Mとはmusic=詩的要素であると語っています。
音楽をやっている以上、言葉で言い表せないことがあるわけでその要素がMであり、なければ知的操作のみに終わってしまう、という趣旨の説明でした。

言葉や何かで理解するものではなく、「突き刺さるようなもの」、「理解を超えた痛み」などと表現されており、美術作品でいえば李禹煥の「関係項」シリーズに顕著なMを感じるとしています。


このMですが、私にとっては「シビれ」であったり「作品の成立の瞬間」であったりすると感じています。
私の制作の場合は、時間的要素やいわゆるNの要素の割合が大きいため、瞬間的にそのMが訪れるのです。
それも質の違いのあるMが、さざ波のように迫る感覚を私は私の作る空間で感じるのです。

以上、このように自らの制作を通して坂本龍一さんのSN/Mを捉えようとしました。
これは知識不足なため単なる予測ですが、S/N比の単位となるdB(デシベル)とは絶対値を表す単位ではなく、%のような比率を表す単位であることから、「SN/M比 50%」というのがdBのような単位として扱われていることが読み取れます。

一般的に60dBが聞き取りやすい音質や音量ということですが、この値が50%としているため単純に50dBと比較してみるとどういったことが言えるのかを考えてみました。

50dBの世界については以下のサイトを参照してみてください↓
http://www.50db.com/world.html
つまり50dBというのは、ほぼ聞き取りづらいということでしょう。
ただこれはS/N比で考えてNの値が大きいから、聞き取りづらいということになるわけです。

ただし今回そのNはMとして置換されているわけですから、つまりは詩的要素としての「突き刺さるもの」が今回のアルバムにはふんだんに感じられる力作であることを示しているわけです。

それは本人もすでに答えています。
「あまりにも好きすぎて、誰にも聴かせたくない」

ここまで言わしめる作品を作れたというのは、一作家としてとてもうらやましいなと感じるのが本音ですね。

私の個展のSN/M比は果たして何%であったのか。
それはまた次回、個展についての投稿までに言葉にできればと思っています。