コロナが続いていくなかで、内省的に自身の作品を眺める作家は少なくないと思います。
私はコロナだからというわけではありませんでしたが、この1年半ほどはそのように省みながら、いくつもの実験や小さな作品の制作を行ってきて全く展示をしませんでした。
その理由は単純に、新しい職場でしっかりと動けるようになることを優先した生活を送ってきたからですが、今後の生活がWithコロナであると世間が認識し始める頃でも、特に大きな違和感もなくただ滔々と実験や小作品の制作を繰り返していたように思えます。
振り返りながら感じたことは、自分の制作の変遷とコロナ禍の経過にはいくつかの相似点や逆に相違点を導くことができ、更に自分なりの提案を見いだすことができるのでは、という考えでした。
まず自身の制作の変遷といえば、絵画や彫刻、インスタレーションというように、より大きく空間的に拡大していく方向へ進んでいきました。
そしてその先は、プロジェクターを使った映像投影を主体とした作品へと移り変わっていきました。
この理由も始めは単純に、大学院を休学して大きな作品の制作や保管の場所が持てなくなったからでした。
それまで空間的に広がりのある作品を制作したくて、大きな平面や立体物などの組み合わせでインスタレーションの表現をしていました。
国連によるSDGs(持続可能な開発目標)やサステナビリティという言葉も広まった現在、上記の問題はより切迫した事実として地球レベルで認識されなければならないことでもあります。
正しくそのSDGsの大きな目標と小さな目標の内容をもって、それらの問題に対処しようと国連が各国に働きかけていたわけです。
しかしこの目標をもって全ての問題をカバーできるとは言い難いのではと感じているのは私だけではないと思います。
それはこの取り組みが無意味だとかそういう批判めいたことを言いたいのではなく、別の視点から同じ問題を捉えた際にどういったことが見出されるかの違いを述べるに過ぎません。
政治家や専門家などの視点から捉えた問題の対処がSDGsであり、料理研究家から捉えたそれはまた違うでしょう。
そういった意味で美術作家である私が考えていることは、一言にすると「察する」ちからの必要性ではないかということです。
私の考えていることに最も適当な言葉ではありませんが、これが近いのではと思い使用しています。
「察する」とは辞典で調べると、大凡「情緒、直感、不確定なことを基にして信じる」、「物事の事情などをおしはかってそれとしる」などの意味が出てきます。
ここでは前者の「不確定なことを基にして信じる」の意を頼りに「不確定性のものを受容し、認識できる形へ据え置く」というように定義したいです。
私の制作やその理論である支持体論には、別次元や知覚認識不可能なことへの眼差しが基盤にあり、そういったことを疑心暗鬼の目で捉えるのではなく、ただそれらを受容しそこから考えうる様々なことを思い巡らせて言葉にしたり形にするという態度をとっています。
これはコンセプチュアルアートのように概念として認識できることを最重要にしたり、逆に考えることではなく感じることの中にのみ本当の美を求めるアジア思想であったりとは違う態度を目指しています。
この態度を要するに「察する」状態と考えています。
では私の提言する「察する」ちからは、そうした苦難にどのような効果を期待できるのでしょうか。
効果やメリットがなければ人の社会は動くことがありません。
それはまるでワクチンのように、「不確定性のある事態に対する免疫力」として働くのではないかと感じるのです。
今後も私たちには想像もできないような未曾有の大災害や破壊が待ち受けているでしょう。
それは人間によるものであろうが自然によるものであろうが、過去も現在も未来も等しく繰り返されるであろう事実です。
しかし私たちの価値観の中に、起こり得るかもしれないが確証のない事柄に対して「察する」ことの意義があれば、もしなにかしら想像もつかないような最悪の事態になったとしてもそれを真っ先に受容することができ、適切な行動へつなげることが可能となるかもしれません。
また「察する」には「思いやる」というニュアンスも含まれます。
それは人間以外に対するものでもあり、知らず知らずのうちにまだ見ぬ脅威への事前の対処方法となって、大災害などを未然に避けたり被害を減らすことができるかもしれません。
行き過ぎた資本主義・自由主義・グローバリズムによる末路は、欲望が倫理となっていく世界であり、その果てに何が待っているのかは想像に難くありません。
その過渡期にあたる現在、コロナによる脅威は私たちの社会に対し、ある意味必然性を持って大きな苦難となったのでしょう。
決して、だから良かったなどというつもりは毛頭ありません。
痛みを受けたからこそ、ただでは起き上がらないという意味で、この苦難からそれなりの糧を生み出すことが建設的に前に進むための一助となるのではないかと思うのです。
私の場合はそれを「察する」ちからとして考えました。
今後も制作や理論を進めると共に、実社会との関わりを交えて考察する機会も増やしていこうと思います。